目次
読もうとした動機は不安から
「脳研究の最前線」理化学研究所 脳科学総合研究センター 講談社 刊
本題に入る前に、この本を読もうとした動機についてです。
記憶術を発信しようとしたきっかけは「ネットで蔓延する誤解を解いて、多くの人に記憶術を身に着けてほしい」です。
でも、自分自身が何か誤解をしている可能性もある。と思ったのです。
記憶術では物忘れもなくなるわけでないし、頭も良くなるわけではない。例えば、記憶術をマスターしても脳自体は変わらない、それは自転車が乗れても運動神経が良くならないと同様。ーみたいな事。
これは自分自身の感覚から言っている事です。でも、本当にそれは脳科学として正しいものなのだろうか。との不安が出てきたのです。
そこで脳科学についての本を探し始めました。
今までも、〇〇大学の△△教授の研究みたいなものは見てきました。でも、それはあくまでその著者の意見や研究結果であって、学会や世界では認められない事ばかりです。
そこから発して、脳の3%説や10%説という都市伝説が誕生しました。3%以外の脳を開発すればそれが潜在力。人間の能力が飛躍的に向上するというものです。恥ずかしながら私自身がこれを信じていた時期もありました。
世界中の研究者は様々な意見や理論、研究結果を持っていて出版もしています。そして異端なものほど売れて広まってしまう現実があるわけです。
なので、本当に中立的で真の最先端の情報はどこにあるか。という視点で探しました。売れ行きや人気やレビューに囚われず。そしてこの本に至ったわけです。
著者プロフィール
そしてこの本を選んだ理由は、書き手そのものです。
理化学研究所の脳科学総合研究センターが執筆者です。個人ではありません。センター長が座長となって11人のリーダークラスの方々が手分けして書いた本です。
理化学研究所と言えば世界一になったスーパーコンピュータの富岳を富士通との共同で作った組織です。遺伝子研究でも様々ニュースで取り上げられました。
脳科学総合研究センターは、その理化学研究所の中にあります。日本のみならず世界から頭脳がおよそ350名結集して最先端の脳の研究をしている日本屈指の機関です。
そして、そのセンター長が座長となりそれぞれの分野でリーダーとなった11人に書かせたのがこの本なのです。
- 谷藤学 阪大・生物工学
- 岡本仁 東大・医⇒ミシガン大学研究員
- 入来篤史 東京医科歯科大学
- 岡ノ谷一夫 慶大・心理学
- 田中啓治 阪大・工⇒NHK基礎研
- 深井朋樹 早大・基礎研 回路研究者
- 西道隆臣 筑波⇒東大・薬 臨床研究
- 藤井尚敬 東北大⇒MIT
- 加藤忠史 東大・医
- 谷淳 早大⇒ミシガン大⇒ソニー研究所
- 中原裕之 東大・教養
- 甘利俊一 東大・数物研 センター長
敬称略/執筆順。非常にざっくりとした経歴の書き方で失礼しましたが、要は様々な分野で官民問わず様々な経験を持って集まった頭脳集団という事です。
2007年の本でも未だ「最前線」と見た理由
この書評を書いているのは2021年。一方、この本が発刊されたのが2007年。既に14年前なのですが、中身を見てみると昭和の時代から連綿と続いている研究内容で、そこには現時点から先の事も見えてきます。
読み込んでみて分かるのが、「未だ最先端」という事。15年前も50年前も変わらないのが「脳の事はまだ分からない」というスタンスです。読んでゆけば分かるのが常に研究途上。
それは、現在の新刊本の値段が3倍以上になっている事からも推測できます。この本の価値は下がっていないわけです。
この本の構成
この本は、とても密度が濃いです。医療・研究現場の方々向けでもあり、実験の詳しい内容も書かれています。でも、ここでは内容の詳細は避けて全体概要を簡単にまとめます。
1章~11章を11人の各専門家に任せ、12章でセンター長がまとめを書いています。
- 脳のシステム
- 脳の進化と心の誕生
- 知性の起源
- 言語の起源と脳の進化
- 脳はどのように認知するのか
- 脳はどのように伝えるのか
- アルツハイマーを科学する
- つながる脳
- 精神疾患から脳を探る
- ロボットから脳を読み解く
- 快楽が脳を創る
- 脳は理論で分かるか
1.本の入り口
入り口の第1章では基本的な脳の仕組みを研究する具体的な内容が描かれています。
それは、そもそも脳というのは生存するために存在しているという前提から入ります。生きるために脳の中で何が起こっているかを研究しているというわけです。
例えばこれ。脳はだまされるというトピックで紹介されたのがサッチャー・イリュージョンです。(出典:Thompson,1980)
サッチャーイリュージョンはネットで検索しても出てくるものです。でも、出てくるのは逆さにした状態です。この状態ならばさほどおかしい写真でもないからです。「逆さに見て下さい」と必ず注釈があります。
これは目と口の部分を逆さにしたて貼り付けたものです。これは、生物として生きるために必要な脳の機能。顔の識別が日常的に必要なので、というサンプルで説明されていました。
他にも、マウスを横向きに置いて画面を動かす実験など、一般的に見てみても面白いものが多々ありました。問題は結論。脳のシステムについてはまだ分からない事が多いという事でした。
基礎研究は未だ発展途上だとわかる
脳の仕組みの研究が第1章でしたが、第2章からは段階別の研究テーマです。2章では生物の進化を、3章では知性を、4章では言語に焦点を当てています。
第2章は「言語の期限と脳の進化」。担当は岡ノ谷先生という唯一の私大・文系出身の方です。慶大で心理学を学んだそうです。ここでは生物が登場して神経ができ、脳のような組織が誕生して人間で発達する過程を研究する過程が描かれています。
中には海馬研究のきっかけの事も詳しくかかれています。事故で海馬の3分の2を失ったのに知能指数も落ちなければ認知力も抽象的思考能力も落ちない、しかし目の前に怒っている事が覚えられないという事例が偶然見つかった事件です。
その後様々な研究が行われた内容が書かれていますが、結論としては未だ研究途上。今後も様々な分野の科学者の知識を結集しないと解き明かせないだろうと締めくくっています。
第3章は知性がどのように生まれてきたかを探る研究です。サルに道具を持たせどのように使い、その結果、脳がどのように働くかなど実に面白い研究がされています。
第4章は言語。鳥などの伝達手段の研究をしていますが、1~3章同様「まだ解明できていない」と銘打ち、更に研究が必要と訴えています。
ようやく一般で目にする根拠がここに
第5章で、ようやく記憶術に近い話が出てきます。同じ情景を見ていても写真のようには残らず注意を向けたものだけ、とか、記憶に残るものと残らないものの話です。
ここは、おおむね記憶術発信者が言っている事と合致していました。つまりは、おぼえるために意識をすれば覚えられるという事です。
そして第6章の「伝達」では教科書にも出てくるニューロンやシナプスが出てきます。脳内の伝達のメカニズムを解き明かす実験の数々が紹介されています。
しかし、語りの節々に「~に関係している可能性があります」とオブラートに包んでいるのが面白いところで、この章でも締めくくりは「次の10年の研究結果が楽しみ」となっています。
応用研究
第7章は臨床研究をしてきた西道先生によるアルツハイマー研究、第9章は精神疾患、第10章でロボットなど、基礎研究から応用研究に至る話がでてきます。
ここに来ると民間の医師や研究者向けの内容が色濃くなっています。そこでも未だ発展途上、例えばアルツハイマーでの発症前診断は未成熟でさらなる研究の必要性が訴えられています。
知りたい事が8章で語られていた
第8章は、「つながる脳」ですが、章の冒頭に出てくる「応用の時代に入った脳科学」がキーワードだと思います。
この章のメインは、盲目患者の視神経と触覚の実験、筋力補強ロボットへの伝達実験など、「神経のつながり」で、そこに多くのページが割かれているのですが、このほかに「社会とのつながり」の記述もあります。
ここに私の知りたいことが書かれていました。世間と研究者はかなり乖離している実態が見えるのです。要は、巷に流れている脳についての認識は、脳科学の世界では認められていないというものです。
例に挙げているのが、「1日ニンジン1本とヨーグルトを100グラム食べると記憶力を高められる」という事。これは、何の科学的根拠もないと言っているのです。
他にも「脳の使い方ダイエット」や「脳の活性化」など、記憶術の世界では割と当たり前に聞かれる言葉についても触れています。そのどれも脳科学の分野では意味不明だという事です。
でも、これらを完全に否定していないところが科学者らしいところです。何故なら否定する材料もないからです。
たとえば「脳の活性化とは何だろう、とてもポジティブに聞こえるが」という事で、活性化の意味について踏み込んでもいるのです。一蹴するのではなく、一般に言われている状態はどのような事だと一旦考えてみて、それについて推論をしているのです。
残念ながら私も集中するときに脳が活性化しているようなイメージがありました。でも、もし先生方に聞いても「間違いと言える科学的根拠もない」と言われてしまうに違いありません。
とにかく「記憶の仕組みについては、まだはっきりとした事は分かっていません」と書かれています。それは脳の仕組みそのもの以上に分からないという事でした。
それは、割と当たり前のように我々が認識する海馬についても同様なのです。「海馬と呼ばれる、記憶に重要な役割を果たす場所がありますが、記憶のメカニズムはまだはっきりとわかっていない・・・」との言い方です。
研究にはドラマがある
最後を締めくくるのは、理化学研究所の脳科学総合研究センターの甘利センター長です。
これは、映画にしても面白いくらいの読み物になっていました。まず、ビッグバンから始まって、それはまるでNHKスペシャル・人体のようです。そして、戦いの世界に入ってゆきます。
初代センター長の伊藤氏という方が学会と戦った話です。それは学術の上での戦いと思いきや、日本の世界に対する戦い、さらには理科学研の戦いでもあったのです。
1980年代。異端の論であった小脳のメカニズムについて、伊藤氏が10年をかけて研究し、国際学会で発表する。会場は一瞬水を打った静けさになり、そのあと拍手喝采。
しかし、その後にその研究に反対する論文が出てバッシングにあいます。それは純粋な研究者としてのそれではなく、やっかみなどが入ったもの。まさに半沢直樹の世界です。
それを覆すために伊藤氏はまた研究をはじめる。などという研究の歴史を語ってゆく、その延長に今があり、先へ続くと。
この話だけでなく脳とコンピュータの歴史についても事細かく記されています。そこには世の中のブームや研究費や人員の増減など研究での波風の物語もありました。
甘利センター長は、「海馬の物語は、これからさらに華やかになってゆくだろう」とも言っています。
すべての著者が「まだ解明されていない」「研究途上」と結論づけ、「今後の研究課題」を真摯に訴えています。中には(理化学研内では認められていないのか)ご自身の理論を記述して、その研究をさせて欲しいとも読み取れるものまであるのです。
それはまさに研究所内の戦い、世界の頭脳への戦いでもあるわけです。第1章から徐々に見え始め、最後の第12章で全貌が姿を現すドラマなのです。
最先端の研究者の方々が断言できない世界。それが脳の世界。だからラスト第12章のタイトルが「脳は理論で分かるか」なのだと思います。それは「脳は理論では解明できない」と言っているようにも聞こえます。
記憶術の発信に向けての心得
私の知りたかった答えは本の中で見つけられました。まさか「脳の活性化」まで脳科学の世界では異端の言葉だったとは驚きましたが。
最先端の脳科学の世界から見れば、巷で言われている脳の認識のほとんどが科学的根拠のないもの。これを知っている方々からすれば、記憶術の発信者側が言っている事にケチをつけたくなるのは分かります。
評判が悪い理由の一端がわかりました。これをもとに、記憶術の本当の良さを知ってもらうための発信を心掛けねば。
という事で、研究の最前線にいる方々の苦悩や物語も見える、ものすごく面白い本です。ご興味ありましたら是非。
定価は1冊1,140(税別)なのに、希少価値で市価がこんなになっています。
でも、中古本も安くたくさん出ているみたいです。それもここから買えます。↑